スペイン観光ツアー

2005年5月21日〜30日の10日間「スペイン古都めぐり」ツアーに参加した。スペイン語の勉強を始めてからスペインの情報はいろいろ聞くのだが、見ていないのでもう一つ実感が湧いてこない。そこで今回は予算の範囲で出来るだけ多くのものを見てやろうと、手っ取り早いツアーに参加することにした。
朝7時に自宅を出て、アムステルダム経由でマドリッドのホテルに着いたのが日本時間で翌朝6時(現地時間23時)。約23時間を移動に費やした。
回のツアーは、スペイン中央のマドリッドからイベリア半島南端に下り、その後東海岸のバルセロナまで北上し、全長約1800kmをバスで実質7日間で走り抜ける。しかも7箇所の世界遺産と2つの美術館を見学するという盛り沢山のスケジュールとなっている。

カスティージャ・ラ・マンチャ
地方
マドリッド
マドリッドはスペイン中央に位置し、標高500m以上の内陸性気候。5月末の気温は東京に似ているが、高地で乾燥しているため、実にすがすがしい。日差しは強いが日陰ではかなり涼しく感じられた。

午前中プラド美術館、スペイン広場、王宮庭園を見学。
プラド美術館には雑誌などで紹介されている正面玄関(ベラスケス門)からではなく、脇のゴヤ門から入場する。未だ倉庫に眠る絵画が数千画もあるとのことで、拡張工事が続いていた。世界の3大美術館の1つとも、絵画館として世界1とも言われるだけに、部屋数も多く2時間程度の見学ではじっくり見ていると全部屋は見切れない。スペインが誇るグレコ、ベラスケス、ゴヤなどを中心に有名画家の絵を探しながら部屋を廻っているうちに迷ってしまう。集合時間が近づき出口へ急いだ時、ゴヤの「着衣のマハ」「裸のマハ」を見ていないのに気付き、あわてて戻ってようやく探し当てる。初っ端からツアーの忙しさを実感することになった。

その後は主にバスの中からマドリッド市内を見学。スペイン広場では下車して、ドンキホーテ像の前で写真撮影後、そそくさとバスに戻る。なにしろマドリッドは治安が悪いのでも有名。我々が到着した夜に、早速「日本人を狙った首絞め強盗に注意」のビラが配られて皆緊張している。

王宮庭園では、ガイドから「ここは管理されていて比較的安全」との話があり、庭園から王宮正面のアルメリア広場までを、ゆっくり散策。広場では音楽隊のオーケストラ演奏で賑っていた。

昼食は王宮広場近くのレストランでパエリヤが出されたが、これにはがっかり。どうしてこんなに不味く御飯が炊けるのだろうかと思える味でツアー客は顔を見合わせながら、殆どの人が食べ残していた。まさか本場の味がこんな味ではないと思うのだが・・・?

(プラド美術館ゴヤ門入口)

(スペイン広場)

(ドンキホーテとサンチョパンサの像)

(王宮庭園)

(庭園には孔雀が放し飼い)

(アルメリア広場)
アランフェス
マドリッドから約50km南下したところに在る王家の別荘地。16世紀スペイン無敵艦隊の時代に建設が始まり18世紀にベルサイユ宮殿をモデルに再建され、19世紀に入り完成した。
2001年12月に街全体がユネスコ世界遺産に登録。

周辺の荒野とは対照的に、タホ川の蛇行した流れを利用して、この辺りでは貴重な沃野を造りだしている。
王宮内は各部屋とも豪華絢爛ではあるが、やはりアラブ風の装飾が印象的。
庭園には噴水や花々、プラタナス、マロニエの並木道がある。異郷の地に想いを馳せさせるようなロドリーゴの「アランフェス協奏曲」第2楽章のあの甘いメロディーはこの景色を眺めながら作られたのであろう。


(王宮)

(王宮入口)

(庭園)
トレド トレドはマドリッドから約70km、アランフェスから約40km離れちょうど3角形を作る位置にある。アランフェスからタホ川沿いの険しい道を進んでゆくと、遠方に忽然と中世の街並みが見えてくる。市街地は3方を自然の要塞となるタホ川の峡谷で囲まれている。我々はそのタホ川を挟んで市街地と反対の高台にあるパラドール(国営宿舎)に宿泊した。テラスからは街全体が一望でき、素晴らしい眺めを作り出していた。

トレドの歴史は古くはローマ時代まで遡るが、西ローマ帝国滅亡後の6世紀半ばには西ゴート族によるカトリックを国教とした王国の中心地であった。その後、712年にイスラムが征服し、1085年にはキリスト教徒がこれを奪回する。1492年にイベリア半島から完全にイスラム教徒が追放される(レコンキスタ)までの約780年間は戦略上の拠点都市であった。またキリスト教徒の奪回後から1560年に首都がマドリッドに移されるまでは、カスティリャ王国、イスパニア王国それぞれの首都として栄えてきた。
現在では、都市全体が世界遺産に指定され、大聖堂はスペインカトリックの総本山にもなっている。

唯一川に面していない北側も城壁で囲まれている。バスを降りると城壁の下から街の中心である高台までエスカレーターをいくつか乗り継いで上がることが出来た。堅固な石造りの家と車1台がようやく通れるような迷路の様に入り組んだ石畳の路で構成され、街全体が要塞となっている。永い戦いの知恵から生まれたのであろう。街並みは私達が3年前に訪れた中世の十字軍の要塞都市で、イスラム教徒との戦いの前線基地でもあったマルタ島とよく似ている。

エル・グレコ(1541〜1614)はここに住み、トレドの風景を描いている。サント・トメ教会にはグレコの最高傑作と言われる「オルガス伯爵の埋葬」が飾られていた。青色と独特の筆使いで描かれた大画面の絵は400年以上経っても全く変色していないように見え、すごい迫力で見る者を感動させる。


(宿泊したパラドール)

(パラドールから市街地を望む)

(迷路のような石畳の路)

(トレド市街の合成写真)

(手前の路から眺めた大聖堂)
コンスエグラ ラ・マンチャはアラビア語で「乾燥した土地」という意味。トレドからさらに約50km位南に下るとコンスエグラという小さな町に着く。そこまでは地に這うブドウ畑と赤土の荒涼とした大地が続く。町には小高くなった丘の上に11基の風車が並んでいた。現在は観光用に保存されている。いつごろから使われなくなったのか分からないが、羽根には布を張り、大きな梃子の様な棒を使って羽根の付いた黒い三角屋根の部分を風上方向に回して、粉引き用として使っていたと言う。
バスが着いた側の風車小屋1階は売店に利用されていた。2階の屋根裏は粉引きの機械があるらしいが、有料なので誰も見学しようとはしない。変な日本語を話すオジサンが遠くからバスが来るのを見計らって下の町から登って来てお土産を売る。日本人が買いそうな小物が比較的安く揃っていてどんどん売れる。我々のバスが引上げる頃には、ご機嫌になったオジサンがさかんに妙な抑揚を付けた日本語で挨拶をしながら、さっさと扉を閉めて店じまいをしていた。


(荒涼としたラマンチャの風景)

(コンスエグラの風車)
アンダルシア地方 コルドバ コンスエグラから延々とブドウ畑とオリーブ畑が交互に続く道を走るとアンダルシア地方に入る。夏には40度を超し「アンダルシアのフライパン」と言われるだけに、ここまで来ると、この季節でも一気に気温は35度近くに上がってくる。約260km、3時間位走るとコルドバに着いた。

コルドバの歴史はイベリア半島のイスラム文化の歴史でもある。西ゴート王国がサラセンによって滅ぼされ、712年にトレド、セビリヤなどが次々にイスラムの手に。756年にコルドバイスラム国(後ウマイヤ朝)が誕生する。首都コルドバには、イスラム教の伝来とともに古代ギリシャ・ローマの文献がアラビア語によって伝えられ、これを学ぼうとする人達がヨーロッパ各地から集まった。926年アブデラ・ラーマン3世の統治で最盛期を迎え、人口100万人に近いヨーロッパ隋一の大都会が形成されたという。学問の中心地として古今東西の学問がラテン語に翻訳され、この地からヨーロッパ全土へと流布されていった。数学や自然科学の英語にアラビア語が多いのはこの時代の影響と言える。1236年にキリスト教徒がコルドバを奪い返すが、街には現在に至るまで当時のイスラム時代の面影を色濃く残すことになる。今ではコルドバ歴史地区として世界遺産となっている。

コルドバ大学見学後、ユダヤ人街へ。入組んだ路地の両脇の家の白壁には花々が飾られている。特に「花の小道」は観光スポットとして有名で土産屋も多い。
暑いアンダルシア地方の各家にはパティオという石の床で出来た中庭がある。風通しを良くし、噴水や水を撒いて涼を呼ぶ憩いの空間を作り出している。各家のパティオは花などで独自の飾付をしていて、道行く人が覗くこともできる。

ユダヤ人街の南隣には、回教寺院として785年〜987年に3回の増改築を繰返し建設されたメスキータがある。内部に入ると薄暗いが、赤とベージュのレンガを交互に積重ねたアーチの柱が特異な空間を作り出していた。荘厳と言うよりは幾何学的で神秘的な美しさがある。この空間をくぐり抜け奥へ進むと突然まばゆいばかりのキリスト教寺院が現れる。コルドバを奪回したカトリック教徒は1523年から227年もかけ、メスキータの1400本あった柱を854本にまで壊し、真ん中にカテドラルを造ってしまった。モスクは本来明るい空間であったが、入口1箇所を残しメスキータ周辺も全てふさいでしまったのである。何ともこの真ん中にある教会は荘厳ではあるがメスキータと不釣合いで違和感を感じる存在となっている。

メスキータを出て正面のレストランで昼食にイカの墨煮を食べた。スペイン名物とのことだが、大きなイカはゴムのようで殆ど味が無い。旅行社のパンフレットで宣伝していたが、お世辞にもおいしいとは言えない味であった。

(コルドバ大学の中庭)

(花の小道)

(コルドバで見掛けたパティオ)

(メスキータ内部)

(メスキータ内のカテドラル)
セビーリヤ コルドバから約130km離れたセビリヤへ向かう。途中一面のひまわり畑だが、満開には1週間程早いらしく、バスからは所々で開花しているのを見ることができた。

セビリヤ市内に入ると満開のジャカランタの街路樹が我々を迎えてくれた。ちょうど日本の桜の満開時期のように市内至る所で咲き競っていて大変美しい。
まずスペイン広場を見学。ここは1929年のスペイン・アメリカ博覧会の会場として造られた。近年に造られたとは思えない規模の大きな立派な建築物である。広場にはスペイン各県の特徴や歴史をタイルで描いた58のベンチが設置されていた。
続いて世界遺産のカテドラルを見学。1401年モスクの跡地に建設が始まり1519年に完成したというスペイン最大で、ヨーロッパでも3番目の規模の大聖堂。概観にはモスクの名残がある。聖堂内部には、コロンブスの墓で、当時のスペインを構成していた4カ国の国王が遺体の入った棺を担いでいる像があった。セビーリャが当時新大陸に向けての貿易でいかに繁栄していたかを物語っている。
聖堂内脇から螺旋状の坂道を登ってゆくと98mのヒラルダ(風見)の塔の展望台に着く。頂上からはセビリヤ市街を一望することができた。

夜はフラメンコディナーショーを見学。想像していたものとは異なり大きな劇場の舞台上で踊っていた。すっかり観光化されている上に音だけがやたらにうるさい。舞台が離れているのでフラメンコ本来の踊り手の迫力が感じられず、やや興ざめのショーであった。

(バスから見たひまわり畑)

(ジャカランタの街路樹)

(スペイン広場)



(セビリヤ大聖堂)

(ヒラルダの塔と観光馬車)

(ヒラルダの塔から見た
セビリヤ)

(フラメンコのディナーショウ)
ヘレス・デ・ラ・フロンテーラ セビリヤからさらに南に下って行くと、次第に土地の色が石灰質を含む白色に変わってくる。太古に海底から隆起し、特殊な地質を形成したらしい。約90km走ったところでシェリー酒で有名なヘレス・デ・ラ・フロンティーラに着いた。スペインでは食前・食後酒のシェリー酒をヘレスと呼び、この近辺の土地でとれたブドウを原料にしたものしか名乗ることができない。

我々はシェリー酒では世界的に有名と言われるティオペペ(ペペおじさんの意)社のボデガ(酒蔵)を訪ねた。
スペインに来て毎食ワインを飲んでいるが、300円位のテーブルワインが実においしい。防腐剤が無いせいなのであろうか? 
ここでも、各種シェリー酒とワインを次々に試飲し、すっかり良い気分になった。
酒蔵には沢山の非常に古い酒樽が積まれている。ここを訪問した有名人のサイン入りの酒樽もあり、日本の皇太子のサインが入ったものが有った。
酒蔵内にワインを飲みに出没するネズミをマスコットのようにかわいがっていた。わざわざ観光用として、はしご付きワイングラスが置いてあり、ネズミが飲む様子の写真まで飾ってあった。

(ティオペペ社)

(皇太子のサイン入り酒樽)

(ワインを飲みに出没するネズミ)
ロンダ ヘレス・デ・ラ・フロンティーラから峠を越えて東へ約70km位走ると峡谷の上に立つ街ロンダに着いた。
昼食後1時間程度の自由行動でこの街を見学する。何しろ夜までにミハス経由で約200km先のグラナダまで行くスケジュールとなっているので忙しい。大急ぎで闘牛場と橋からの街の景観を見て廻った。
ロンダには1785年に建てられたスペイン最古の闘牛場があり、近代闘牛の発祥の地として知られている。闘牛場内には博物館があり、英雄となった闘牛士達の写真と記念品が飾られていた。

ロンダの街はグアダレビン川により侵食されて出来た100m以上の絶壁の上にある。このスケールの大きい素晴らしい景観を見に多くの観光客で賑っていた。
特にヌエボ橋の上から下を眺める景観は圧巻であり、遠方はアンダルシアの遥かかなたまで見渡すことが出来た。

(最古の闘牛場)

(断崖の上に建つパラドール)

(橋の上からの景観)
コスタ・デル・ソルのミハスへ ロンダからさらに東へ50kmほど山道を越えると、地中海の別荘地帯コスタ・デル・ソロ(太陽の海岸)に出る。この地帯は地中海性気候のため、1年中温暖で晴天の日も多い。山腹から海岸沿いには、まばゆいばかりの白い壁の家が広がっていて、多くの建設中の邸宅も見かけた。おそらく今でもヨーロッパの金持ち階級の人々が太陽を求めてやって来るのであろう。ゴルフ場も多く別名ゴルフ海岸とも言うらしい。

我々はバスからコスタ・デル・ソル(太陽の海岸)の海岸線の景色を眺める。モヤがかかっていて判別できなかったが、運が良いとジブラルタル海峡の向かい側のモロッコまで見渡せるとのこと。
しばらく走ると白い村として有名なミハスに着いた。ここも時間が無く30分位の観光となった。観光客相手の土産物屋が多く、白い家並も来る途中で十分見て来たので、さほどめずらしくは感じられなかった。

(ミハスから眺めた白い家)

(コスタ・デル・ソル)
グラナダ ミハスから雪を頂くシエラ・ネヴァダ山脈(3400m)を見ながら東北東へさらに約150km走ると古都グラナダに着いた。

グラナダはスペインにおけるイスラム勢力が滅亡していく時の最後の王国の中心であった。キリスト教徒がイスラム勢力を追い出そうと始まったレコンキスタ運動の真っ只中の1230年にナスル朝グラナダ王国が誕生した。1236年にコルドバが陥落し、48年にセビリヤが陥落、ついに1251年にはグラナダを除く全てがキリスト教徒の手に落ちる。こんな時代にイスラム文化の珠玉アルハンブラ宮殿が完成した。やがて1492年にこの王国も滅亡し、レコンキスタが達成されることになる。アラブ様式を残しつつキリスト教徒に引継がれたアルハンブラ宮殿も18世紀迄にはナポレオン戦争などを経てスペインの片田舎で荒廃していた。19世紀に米国人作家により「アルハンブラ物語」が出版され、一躍世界から注目されることとなり、今では世界遺産として修復が続いている。

グラナダ市街に宿泊したが、この街はシエラ・ネバダ山脈の麓に位置するだけに水が豊富で、水道水を飲んでも冷たくておいしい。早朝、カテドラルまで街の中を散策した。ちょうどこの日はキリスト教の聖体祭にあたるため、街の歩道や広場には様々な祭壇が作られ、きれいに飾付けをして御聖体行列の準備が始っていた。

午前中かけアルハンブラ宮殿を見学した。スペイン人だが、日本で吉本興業に所属して、テレビにも出ていたと言うカワサキさんというガイドの案内があり、最後まで日本語の駄洒落で皆を笑わせていた。
アルハンブラ宮殿見学は今回の旅行で期待していた場所の一つだったが、やはり予想通りの素晴らしいイスラム文化の様式美がそこにあった。出来れば丸一日かけてもっとゆっくりと見学したい。

(市街の歩道に飾られた祭壇)

(水が美しいアラヤネスの中庭)

(回廊から見たライオンの中庭)

(八角形で鍾乳石飾りの天井)

(大理石の柱、壁の飾り)

(装飾窓から見る緑が美しい)

(ヘネラリフェ離宮)

(アルハンブラ宮殿遠景)
カタルーニャ地方 バレンシア グラナダを午後1時過ぎに発ち、時々オリーブや葡萄畑を見掛けるが荒涼とした原野をひたすら北へ向け高速道路を走り続けた。約5時間位すると緑が急に多くなって、オレンジ畑が続きバレンシアに近いことが予感できるようになった。ようやく夜7時半頃にバレンシアに到着。スペインはこの時間でも明るく、21世紀の新しい科学都市をイメージして建築中という極めてユニークな建造物群が眼に入ってきた。
バレンシアはマドリッド、バルセロナに次ぐスペインで3番目に大きい街。気候も温暖で緑が多く、オレンジの木や花屋が多い。フレッシュのオレンジジュースが水並みに安い。来る時のドライブインや街中の店ではオレンジを丸ごとポンポン放り込むと自動的に絞ったジュースが出てくる機械を備えていた。

翌朝、我々はバスで街中を一回りした後、中世の交易所というラ・ロンハ(世界遺産)から中央市場を見学した。中央市場では周辺で採れた野菜、果物、魚、肉など安くて豊富な品数があり、多くの人で活気に溢れていた。試しにサクランボを小銭で買ってみたら、おいしいが2人では食べきれない量が有り、2日間かけてようやく食べた。
続いてカテドラルを見学。13世紀半ばに建設され14世紀末に完成したという大聖堂。内部は美術館のような見学コースがあり、キリストが最後の晩餐で使ったという聖杯が飾られていた。ここでも聖堂脇にある八角形をした70mのミゲレテの塔に登り、バレンシア市街を一望する。


(建設中の21世紀の科学都市)

(街中で見掛けるオレンジの木)
(大聖堂入口)
(大聖堂のミゲレテの塔)

(中央市場の果物)

(花で飾られたバレンシア市街)
ペニスコラ バレンシアから北へバルセロナまで約300kmあるが、その途中に風光明媚な街ペニンスコラがある。周辺は真っ青な地中海に白壁の家が映えるリゾート地だが、14世紀にローマ教皇が居住したという城が、地中海に突き出た岩の上にあり、観光場所となっていた。

当時アラゴン出身のルナ教皇はアビニヨンで選出されたが、その後対立する教皇がローマで選出され、この城に居を移して自らの正当性を主張し活動したと言う。
内部は見学できるが、飾りのない質素な石造りの部屋だけが残っていた。

(白壁の家)

(城から見た地中海と街)
バルセロナ バルセロナの街に入ると直ぐに、ガウディのサクラダ・ファミリヤ(聖家族)教会と分かる特徴のある形をした建物が見えてくる。
午前中は、まずピカソ美術館を見学。その後、市の中心部にある聖家族教会を見学し、最後に市の北側にあるガウディゆかりのグエル公園へと回った。
ピカソ美術館はピカソ生涯の作品が分かり易く展示されていた。日本でも何回か見てはいるが、ピカソの心の軌跡が改めて感じられておもしろい。
聖家族教会は今回の旅行で実物を確認して見たい物の一つであった。現在までに完成しているのはキリスト誕生を彫刻した東正面の4本の鐘楼及びキリスト受難を彫刻した西側正面の4本の鐘楼で、合計8本の鐘楼だが、完成時には18本になる。着工後約120年かけてこの状態であり、完成はいつになるか想像も付かない。周りには大きなクレーンがあり、内部は全面的に足場が組まれて、まさに建設工事現場という状況であった。それでもやはり完成された部分の彫刻の素晴らしさや鐘楼の威容な姿の中に、ガウディの偉大さを充分感じることができる。

グエル公園はガウディが田園都市を造ろう計画したが、資金が続かず途中で挫折し公園になったもので、ガウディのユニークで目を引く多くの作品が残っている。

午後は、買物組とモンセラート見学組に分かれ、我々はモンセラートへ。

帰国日に当たる翌日の午前中は自由行動。カテドラルを見学し、その後バルセロナ市街と海が一望できるロープウエイを使ってモンジュイック丘に登り、丘の上にあるミロの美術館を見学した。

(工事中のサクラダ・ファミリヤ)

(東正面の彫刻)

(西正面の彫刻)

(グエル公園中央広場)

(グエル公園トカゲの噴水)

(地中海の波を模した
建造物)

(ロープウエイから見た
バルセロナ)
モンセラット バルセロナから北西へ約50km山道を登ってゆくと、見たことの無い奇妙な形をした巨石が、幾重にも重なり合って見える岩山が現れる。モンセラットとは「のこぎり山」の意味で、古くからのキリスト教の聖地として、今でもスペイン全土から多くの巡礼者が訪れると言う。1235mの山の中腹に大聖堂がある。ナポレオンにより破壊されたが、その後修復され、その時に難を逃れた黒いマリア像と赤い表紙の中世の楽譜「モンセラートの赤い本」が有名。

この日はバルセロナに戻り、スペイン最後の夕食でバルセロナの新鮮な魚貝類と本場サングリヤの酒を味わうことが出来、良い思い出となった。

(遠方から見たモンセラットの山)

(中腹からの眺め)

(教会前の山)

(修道院上の山)

(バルセロナのシーフード料理)